以前に賢治の表紙で紹介したことのある中央公論の「Adago」。最新号(といっても12月号だが)の表紙は樋口一葉。賢治のときとおなじく、人形作家の石塚公昭さんの制作である。
(画像はピンボケになってしまったが、きりり、とした一葉だ)
一葉にちなんで、今回は内幸町(うちさいわいちょう)や春日周辺の特集となっている。旧居跡のある本郷菊坂は、わたしの母校の発祥の地でもあるので、学生のころ、わざわざ行ってみたことがある。
現在の菊坂はさほど風情のない、たんなる道路だが、路地をはいったところにある一葉の旧居跡の近くには、当時の古井戸がのこっていた(Adagoの記事によれば今もある)。
学生のころ、この井戸を見学したときにも、水が出てくるところに赤サビを濾すための、木綿の布を巻きつけてあったけれど、Adago掲載の写真でも、ベロンとした布が垂れている。でも、これは木綿の布ではなくて、どうも排水口にとりつける市販のネットのように見える。
わたしの母校が菊坂にあったころの学生は、袴(はかま)の女学生スタイルながら、そうとう「かぶいて」いたらしいことが、学校史につづられている。いわゆる矢絣(やがすり)に葡萄染(えびぞめ)の袴すがたではなく、元禄の若衆のような派手なつぎはぎルックの女学生もいたもよう。
ことばづかいも問題になっている。「てよだわ」ことばの流行を、教員たちが嘆いている。~なさってよ。私~だわ。というあれである。
現代のわれわれからすると、ふつうのおじょうさんことばのようなのだが、当時は~なさいませ、私~ですの、というのが奨励されたのだろう。
庶民のわたしには、正確なところはわからない。白州正子さんの時代になると、学習院などに通う令嬢たちは、かえってわざと乱暴なことばづかいをしていたようすだが。
一葉の原稿は端麗な毛筆で書かれている。台東区竜泉の一葉記念館でその一部をかいまみることができる。失われたことばのことはむろん、「書く」という繊細さに、あらためて思いいたる場所である。