去年、薬師寺展に出かけるのが会期末となってしまい、2時間半もならんで入館するはめになった教訓を生かし、阿修羅ははやめに行こう、ときめて出かけてきた。
30分待ち、の表示がでていて、ふだんなら気が重くなる待ち時間だが、去年にくらべれば、どうということもない。実際、つれとおしゃべりしているうちにすぐ順番が来た。ただし、予告より10分ほどよけいに待たされた。
(列の途中には給水コーナーと日傘の貸しだしがある。)
いよいよ阿修羅に逢う。
20年ぶりになる。かつてはよく奈良に出かけては阿修羅に逢っていたのに、今の仕事になってから、さっぱり時間がとれず。
なにより印象深かったのは、ライティングのスバらしさだ。
近ごろの東京国立博物館の展示は、たいへん力のこもったものが多く、見ごたえがある。
興福寺の宝物館では、ガラスケースに入っている阿修羅を、このたびは、じかに見られるのもうれしい。
ガラスケースの展示では背面にまわれないので、背中を拝めないばかりか、左右の顔(阿修羅は三面である)も、よく見えない(その顔のまえに、あの華奢でうるわしい腕があるからよけいに)。
すべての角度から堪能できるだけでも、ひじょうにありがたいうえ、ライティングの妙によって、展示室の闇のなかに、阿修羅だけが浮かびあがる。
実物がそこにあるとわかっていながら、なぜかホログラフィーを見ているような錯覚におちいる。
その奇妙な感覚が、また面白い。
うす闇のなかでの展示にもかかわらず、表面にわずかにのこる彩色のあとや紋様も、衣の襞(ひだ)や流れるようなうねりも、じっくりとながめることができた。
しばらく興福寺を訪れていないので、最近のようすはわからないが、20年前のガラスケースのなかの阿修羅は、天井の蛍光灯をあびて襞も紋様も質感をうしない、輪郭(りんかく)もぼやけてしまう展示だった。
だから、妄想の力を駆使しなければいけなかっのだが、今回はちがう。
ただただ、見つめるだけで満足できる。
はじめて、ほんとうに阿修羅を堪能した気分になれた。
ただ、混雑もたいへんなもので、最前列に近よれない。拝んでいるかたもいる。だから、すこし離れたところ(それでもじゅうぶん、細部まで鑑賞できる)にとどまって、ながめていた。
八部衆も、十大弟子も、ライティングによって、これまで知っていたのとはちがう姿を見せてくれる。
「芸術新潮」(3月号)の記事によれば、これらの像が度重なる火事を生きのびたのは、「脱活乾漆創(だつかんしつつくり)」と呼ばれる張りぼて式の技法でつくられ、避難させやすい「体重」であったからだという。
ちなみに、阿修羅は身長153.4㎝14.85㎏だそうである。