忘れな草
ne m'oublie pas.
――という公演タイトルです。
今回は93年作品のリニューアル版でしたが、
実は前作を鮮明に記憶しているわけではないので、
ある場面にさしかかって
「ああ、観たことがある」という感覚によって、
過去の舞台の断片を思いだすのです。
けれども
心象風景によって成立するこの作品においては、
記憶をたどることは、あまり意味がありません。
常に「いつかどこかで」遭遇したなにかと、
「はじめて観るのに懐かしい」感じが
交錯してゆくのです。
このたびは「歌声」の導入が、
あたらしい試みでした。
フィリップ・ジャンティカンパニーの公演をはじめて観たのは、
88年です。
パペットはもともと好きだったのですが、
人が黒子としてではなく、
演技者として人形とともに舞台にあらわれるのは
まったく新しい見物で、
不思議な浮遊感をおぼえました。
そのころわたしも二十代でしたが、
会場も若者(だけ)でいっぱいでした。
人形たちが空気の抵抗や重力にたいして
軽やかな存在であるのは当然ながら、
フィリップ・ジャンティカンパニーの衝撃は、
生身の人間の動きもまた、
人形なみの重力の影響しか受けていないように見えることです。
人形とともに折り重なって回転する場面が何度もありますが、
間近で舞台を凝視していても、
人形と人間の重力のちがいがわからないほどの一体化。
そうして圧巻の布のパフォーマンス。
空気をはらんで、膨脹し、収縮する。
はためき、ゆらぎ、たゆたいながら、イキモノのように動きまわる。
海にもなり、風にもなり、砂嵐にもなり、氷にもなり・・・。
はたまた、蝶の翅か天使の翼のようでもある。
このたびの設定は氷原ですが、
そこは氷河のようでもあり、砂漠のようでもあり、
月面のようでもあり、火星のようでもあり。
記憶のかけらを拾い集める旅をしている、という設定です。
舞台を見つめながら、自分のなかの忘れていた記憶も
呼びもどされます。
それは、おもに以前に観た公演の
舞台の内容というよりは、その日のちょっとした会話であるとか
どこの店でお茶をしたかとか、
だれといっしょであったかとか
そんなふうなこととです。
今回の公演の観客席は年配のかた中心。
それも、80年代に熱狂した若者の30年後ではなく、
はじめて、という感じのかたが圧倒的。
中高年のあいだのどういう情報網なのかは知りませんが、
不満足なようすで感想をのべているご婦人がたも見受けられ、
以前は好きな人だけが集まったのに、と
ちょっと気分をそがれました。
それ以上にパルコ周辺の老朽化が気になりました。
80年代の全盛期を知っている者としては寂しいかぎり。
パルコ内の化粧室にて
ルールを守らない大陸の人々と遭遇して、なおさらゲンナリ。
公演のあとで、
カフェに立ちよったら、
渋皮のまま煮込んだ栗の冠をのせたモンブランが
目につきましたので、それを注文。
なんと中にももうひとつ隠れていました。