
寒い日のおやつは、これにかぎる。くず湯。大納言小豆のものが好き。くず湯にかぎっては、抹茶はあまり好きではない。緑茶に甘みがあるのは、どうも苦手。抹茶アイスクリームを食べることはあるけれど、ごくまれ。
西武線鷹の台駅前の松明堂ギャラリーにて、望月通陽さんの、「うるし絵 沈金」の展示がはじまった。
クリームのようにながれる金は、まるでコーヒー占いのよう。はたまた、どこかの遺跡から発掘された古代文字のように。沈金とは、毛彫りしたところに金をほどこすのでその名がある。このたびもまた、望月さんにとっては、線でありつつ、彫ることであるのだ。
漆という字は、木に傷をつけてその樹液をしたたらせたことをあらわす字であるという。つくりの部分の一番下は、古代の金文でなみだをあらわすとされるかたちである。
これがなみだをあらわすと知ったのは、白川静さんの、「漢字」(岩波新書)による。わたしは学生のときに、タイポグラフィの課題のおりにこの本を手にとり(1980年)、ページをめくるごとに、それこそ目からウロコが落ちた。
初版は1970年。そのときに、衝撃をうけたとおっしゃる松岡正剛氏が、このたび、ずばり「白川静」という本を執筆なさった(平凡社新書)。たいへんおもしろく読んだ。あらためて、白川さんの「漢字」も読み返している。
1970年といえば、わたしは小学五年生。あのときに、口は人間の口をあらわすのではなく、言霊(ことだま)のいれものなのだ、と正しく教えてくれる人があったら、どんなにか漢字の世界がひろがったことだとうと思うにつけ、口惜しくてならない。
かつて哀という字を、おぼえるのに苦労した。哀とは、死者の衣によせて霊の回帰をねがう祝告をふきこむことである。だから、衣のあいだにそのいれもの(口)をおいたのだ。
そういうことを教えてくれることこそ、国語の授業ではないか。
なんとむだな授業を、やまほど受けたことか。
嘆きつつ、白川静さんの本にうずもれる。