
岩波文庫の緑の帯の、うすい玻璃紙をまいた文庫本の、『草迷宮』(くさめいきゅう)と表題に惹かれて本(泉鏡花)を手にしたのは、中学生のころだった。でも、当時は太刀打ちできなかった。
あらわれることばの字面に、めくるめくような思いはしても、頭のなかで消化できない。
洋という字に、わたつみとルビがあり、霄という字におおぞらとルビがある。
うっとりとするものの、ことばは、ただ単独で目にはいるばかりで、文として意識のなかにはいってこない。なじみのうすい表現が多すぎて、行間がつながらない。
迷宮の入り口で、つまずいたまま、起きあがれず、という風だった。
「媼(うば)が口の長い鉄葉(ブリキ)の湯沸かしから、渋茶を注いで」などとある。媼口(うばくち)という語の意味を理解して読めるようになったのは、二十代のときだった。
(急須などの口の部分が、歯のないおばあさんの唇のように、内側へ巻いているかたち)
子どものころは、この部分を読んだだけで、読んだつもりになるのと同時に、ひたすらに怖かった。
(此処は何処の細道じゃ、
細道じゃ。
天神様の細道じゃ、
細道じゃ。)
こちらのほうが、文庫本にのせた画像より、水晶のなかの草迷宮を実感できると思う。
実際に、手にとってのぞきこんでみると、なおさら、その小さなもののなかへ惹きこまれそうな心地がする。
光に透かしたり、また、小暗い蔭のなかで、ひっそりとした気分にひたったり。
それぞれのたのしみがある。
次回は、ひとつぶの葡萄のような石をご紹介する。