ソフィ・カルは
フランスを代表する現代アートの作家である。
ということは、観る人によって極端に評価がわかれる。
世の中には、評価が定まったものしか鑑賞できない人たちがいる。
だから、前衛的なものへの関心も薄くなりがち。
「限局性激痛」展で日本に初お目見えしてから
やはくも年月はひとめぐり(それ以上か)。、
このたびは「最後のとき/最初のとき」というタイトル。
(6月30日まで。於:原美術館)
わたしが「ちくま」で
「こんどいつ来る?」を書いたのは、この展示を見る以前だったけれども
ソフィ・カルが盲目の人々に「最後に見た風景」をたずねてまわるこ今回の
展示には、いつも以上に興味がわいた。
「こんどいつ来る?」を読んでくれた人にはその意味がわかるだろう。
おなじく、
ポール・オースターの小説が好きな人には、
ソフィ・カルについての細かい説明は要らないかもしれない。
簡単に云ってしまえば、
他人を観察して、自分探しをする人だ。
今回は、盲目の人に「最後に見たもの」をたずねる、という
ふつうの人なら簡単には思いつけないし、
思いついても、そうそう軽々しくは実行できないことを、
ソフィ・カルはいつものとおりのパフォーマンスで、
実現させた。
場所はイスタンブール。
作品No.2の
「盲目の人とリボルバー」という写真には、
かなり驚かされた。
盲目の人というからには、両目とも失明しているから、
正面から、あるいはその後ろ姿を撮影したものが多い。
でも、このNo.2の作品は、横顔。
そのわけは、テキスト(日本語訳)を読めばわかるのだが・・・。
まさに、オースターの小説を読んでいるかのようなできごとが
語られる。
ソフィ・カルだからこそ、聞きだせた話かもしれない。
記憶というものは、複合的に導かれるものであるから。
たとえ個人の意識のなかにあるとしても、
それが神経細胞によるものであるかぎりは、
外部の働きかけによって、ちがう反応をするものなのだ。
タイトルのもう半分「最初のとき」のほうは、
イスタンブールで暮らしながら海を見たことがない人たちを
ソフィ・カルが海に招いた、という作品。
原美術館は、駅から遠いので、
蒸し暑い夏や、極寒の冬には
たどりつくまえに体力を消耗してしまうのだが、
そこで行われる展示もまた、
「おなかいっぱい」になりつつも、へとへとになるという作品が多い。
さいわい、カフェが併設されている。
庭を鑑賞しつつ(しかし、周囲の高層高級マンションに目をうばわれる)、
ひとやすみ。
品川駅から歩く道すがらの
御殿山の景色がまた、
原始の東京の地形を宿していて、
これはこれで、自分の足もとを見つめなおす機会になる。
会期終了までわずかなときのご案内で申し訳ない。
いろいろ、とりこみごとが重なっていたもので。