デビュー30周年の展示がまもなく開催です。
(詳細は耳猫風信社HPをごらんください)
〈睡蓮の開く音がする月夜だった。〉とノートに書きつけたとき、
それが自分だけの読みものではなく、
ほかの人たちが読んでくれる物語として
〈紙の本になる〉ことまでは
もちろん、かんがえていませんでした。
けれども、原稿が完成したら、
投稿しようとは思っていました。
ちょうど30年前の今ごろは、
「文藝」の編集部あてに送った原稿が、
ほんの少しでも、編集者の興味をひくほどのものであれば、
幸いだけれど、と希望を持ちつつも
あまり期待はできないから、と自らに云いきかせ
つぎの計画を立てようとしていました。
初期の読者のかたはご存じですが、
そこでわたしがとった行動は、
まずはフランス語を学習しよう、ということだったのです。
でも、アテネフランスは敷居が高かったので(ハイレベルですから)、
社会人向けのカルチャーセンターの語学講座に申し込みをしたのでした。
9月になり、その講座の一回目の授業を終えて、
帰宅したら、
〈文藝〉の編集部から、「連絡をください」というふうな
電報が届いていたのです。
(ちなみに、この日から、
漢字まじりの電報が打てるようになりました。
そのまえはカタカナのみ
↑若いかたも昭和ドラマなどでご存じですよね?
レンラクコウ ハハ のたぐいです)
これも初期の読者のかたはご存知ですが、
わたしは原稿を送るさい、電話番号を記入しなかったのです。
なぜなら応募要領に「電話番号」と書いていなかったから。
個別に連絡してくることはないのだろう、と
解釈したわたしは、住所と名前だけを書いて応募したのでした。
(若い読者のために注を。30年前、一般人向けの携帯電話は存在しません)
〈文藝〉に連絡をしましたら、
「最終選考にのこっているので少々手直しを」と編集部に呼ばれ、
千駄ヶ谷の河出書房新社へ出かけました。
あの地点から、
おおよそ30年が過ぎたのです。
いまでも、当時と変わらないくらい迷いつつ原稿を
書いています。
わたしの技量からいって、
いくつになっても
自信を持って書く、などということはないでしょう。
12日からの展示では、初期の単行本のさいの
カバーの色校正や
書店用のチラシなどの紙ものを中心に展示しております。
集大成ではなく、断片です。
それぞれの時代を「函に詰めました」という
構成になっております。
耳猫風信社の雑貨舗では
特製品をとりそろえて、読者のかたがたのご来場を
お待ちしております。
お時間がございましたら、
遊びにいらしてください。
遅ればせながら
このたびの豪雨で被災なさった地域の方々に
心よりお見舞い申しあげます。