小学校時代のことなど、もはやめったに思いださないのだが、先日の、卒業以来の母校訪問で、ほそぼそとした記憶の糸がまだ通じているのを実感。
でも、おおいなる記憶ちがいもあった。
夏の林間学校は、市の施設がある清里ときまっていた。現在は、建てかえられて、そこそこりっぱな山荘になっている。当時は、仕切りもほとんどないような、雑魚寝(ざこね)であり、男子は一階、女子は二階。二階の廊下から男子の部屋が丸見えという状態だった。
それはともかく、
小海線には、まだSLが走っていて(日本でもっとも標高の高いところを走る汽車でもあった)、
それを目にして、生徒一同大騒ぎをした。
早朝にたたきおこされて、山登り。とちゅう、木立のあいまから見える霊峰に目をうばわれた。頂きにのみ雪がのこる、きりたった蒼い山のつらなりは、鳥肌がたつほど晴れやかでうるわしい光景だった。
あれは、八ヶ岳、と引率教師の説明があり、山の偉大さを心にとめたのだが・・・。
このあいだの学校訪問の同行者だった詩人の田野倉くん(同級生)が、「あれ、実は甲斐駒だったんだよ」と教えてくれた。
ずっと、八ヶ岳だと信じていた。その後、清里に行ったときも、みじんも疑わなかった。なにしろ山にうといので。
ともあれ、小学生のときにみたあの山の雄姿にまさるものを、いまだ目にしていない(山に行っていないせいもある)。
旅の目的のなかで、いつかみた景色を、もういちどこの目にしたいという欲望は強いものであるが、そうそうかなわないことを、この歳月のあいだに学んだ。
子どものときに見ておくべき景色というものが、確実に存在する。