先日、外出先で駅のエスカレーターに乗っていたところ、まえにシュウカツの紺のスーツをまとった女子学生が立っていた。彼女がさげていたカバンに、わりに厚みのある本が差しこまれていた。
近眼のわたしはすぐにタイトルを読めなかったけれども、失礼と思いつつ(のぼりエスカレーターで段差があるのをよいことに)、しつこくのぞきこんだところ、”百年の孤独”であることがわかった。
シュウカツをしながら、若くして”百年の孤独”を読む学生は、いったいどんな勤め先を希望しているのだろう。
あるいは、面接にそなえて、「今、どんな本を読んでいますか」ときかれたときのために読んでいるのだろうか。などと、よけいなことを考えてしまった。
”百年の孤独”は、まさに化や怪のものが宿る物語で、語るそばから、そこで語られる人々を巻きものに包みこんで、その巻きとられた部分が、渦をつくる動きを止めず、なおもぎゅうぎゅうとしめつけられて細く固くなってゆくのを、かたわらで感じつつさきへさきへと進む、そんな書物である。
巻きものの最後の部分へたどりついたとき、読みはじめたときと逆向きに巻きとられたその書物が、べつのひとつの物語であることを知る。
シュウカツの面接で、”百年の孤独”がよき書物として評価されるならば、そこはおそらく厳しいが働きがいのある職場だろう。最悪なのは、面接の担当者がこの書物の面白さを理解していない場合だが、思うに、そこにはかなりの数の企業がふくまれる。
わたしが勤め人だったのは、もう四半世紀も昔のことだ。その職場は書物にとっては最悪の環境だった。
昼休みに本を読むな。仲間とコミュニケーションをとり、情報を得ることに使え。
と総務の幹部が(社員食堂にて)説いてまわる職場だったのだ。
それは、あの職場においては正解だったのだろう。今もって、流行の発信源としての地位を保っているし、多数派の先頭にたつことに長けた企業であると思う。
たんに、わたしには合わなかっただけ。昼休みには、ぜひとも本を読みたい。
それにしても、”百年の孤独”を読みながらシュウカツをしていたら、会社員として働くこと自体に疑問を抱いてしまいそうである。